自分の思っていることをずらずらーっと書き出すのが好きで、ストレスマネジメントとして18の頃から続けているのですが、タイでそれをやったところ一緒に旅してたバンドメンバーから「公開すればいいのに」的なことを言われました。
ので、昔のメモをあさっていたところ公開し損ねてる記事があったので公開します。
おそらく、2013年9月にブログにかこうとしてかいたものの心の中を晒しているような感じが怖くて公開できなかった記事かと…。
先日ちょっと嫌なことがありました。
そのとき生まれてはじめて自分の感情の中の「怒」部分を感じたような気がします。
それまでは何かに対して「怒」という感情を持ったことがありませんでした。
持ったとしても、それは「自分自身」ではなく、「自分の大事なもの」を傷つけられたり馬鹿にされたときだけでした。
それは何事もどちらかが絶対悪ということはありえないと思っていたから。
客観的にひどいね、と言われるようなことに対してもやっぱり何かしら自分の行動がきっかけになっているからやっぱり自分が悪いのだ、と思っていました。
だから一般的に「キレる」という行為になることは滅多になく、ずっと泣き続けるタイプでした。(笑)
しかしそれは建前で本当は「他人を責めるよりも自分を責めた方が楽だから」という理由でそういった考え方になっていたんじゃないか、と。
自分を責める事によってまわりを好きなままでいられる、結果人を嫌いにならずに済む。
苦手な人はいても、嫌いな人は一人もいませんでした。それはとっても楽な生き方でした。
嫌いな人が多い人や悪口が多い人をみてどこかで、この人たちは生きるのが大変そうだなあと思っていました。
先日、はじめて「怒」が爆発しました。
はじめての感情だったのでその「怒」をどうしたらいいのか分からず、まずその処理の仕方を友達に相談するところから始まりました。(笑)
旅行へ行ったり、自分の好きなことをしてみたり、友達に話を聞いてもらったり。
何かを嫌いになるという行為はとてつもないパワーを必要とするものだと知りました。いつものように自分を責めようとしても、できないというはじめての感覚。
でもそこで何かに対して「怒」を覚えるということは自身の価値を必要最低限保っているということの証なのではないかと気がついたのです。
確かに嫌いな人がいないというのは楽です。
でも、そのためには自分という人間はひどい仕打ちをされてもしょうがないのだ、と思わなければいけません。人を嫌いになることに怯えるあまり、知らず知らずのうちに必要以上に自分の価値を下げていたんじゃないかと。
いつも色んなことを相談にのってもらっていて、誰よりも信頼している先輩がいるのですが、
「愚痴りながらも、なんだかうじうじしてた以前よりも、とぴちゃんずっと生き生きしてるよ?(笑)」と言われました。
きっとそれは最低限自身の価値を保ったからこそ、何かに対して怒れたということであり、そんなことをされるのはおかしい!と思えるということは以前の状態よりもよっぽど健康的なんじゃないかと気がつきました。
勿論怒るよりも笑っていたいのには代わりはありません。嫌な事より楽しいことが多い方が良いに決まってる。
それでも「喜喜喜哀哀哀哀哀哀楽楽楽」だったのが「喜喜喜怒怒怒哀哀哀楽楽楽」
に変わったということはもしかしたら悪いことではないんじゃないかなと、そう感じました。
これが正しいことなのかまだ子供の私にはわかりません。
もしかしたら数ヶ月後には考えかたが変わっているかもしれません。きっとその時はこっそりとこの記事を消すでしょう…(笑)
それでも「喜怒哀楽」という言葉がある以上、「喜怒哀楽」4つ全ての感情を感じられるということは、心が健康な証拠ではないかと思うのです。